マハリシの「私は誰か」という本の朗読を聞いていた時に思い付いた疑問です。

それは、「私が私を愛する理由とは?」

そもそも愛とは何かも定義すること自体が難しいですね。

例えば、リズブルボーさんは「愛とは受け入れること」と語ってます。

キリスト風に言えば、「愛とは許すこと」かもしれません。

また、釈迦は「愛から離れよ」と言っていて、愛が執着であると語ってます。たぶん、キリスト的な愛は釈迦にとっての慈悲に近いかも知れませんが。

たぶん、賢者や聖者が語る愛は多くの人やその人自身にとって確かにその通り正しいことなのでしょう。

さて、自分を鑑みても自分は自分を愛していると思います。私が行動をしたり考えたりする基本は、自分が喜ぶためのものや自分が心地よく感じることのためだからです。

ただ、なぜ自分が自分を愛していると思っているのかは、わかりません。

結局、理由はないけど愛しているのかなとも思います。

でも、時には自分なんて嫌いなんだって思ってしまうこともあります。

過去、死にたいなーとか、他の人のようになりたいなって思ったこともあるし、これからも同じように考えることは、あるかもしれません。

つまり、時には愛することもできるし時には愛することができないこともあるのです。

だから、無条件に自分を愛していないのでしょうね、まだ条件付きなんです。

・自分が愛せるような自分なら、自分を愛せる

なんです。

完全に無条件に自分を愛せるのであれば、たぶん愛することに理由なんてないでしょう。

理由がないからこそ、無条件になるからです。

さて、どうしたら無条件で愛せるか?

この答えはたぶん、生きている経験にあります。

経験の中で多くの出来事、出会いがあります。

これらをすべて無条件に受け入れることができた時、たぶん自分を無条件に受け入れることができて、愛することができるはずです。

つまり、自分と自分が経験することは、鏡のようなものです。

自分を写す鏡が、この世界の経験ということです。