気づきがありました。

ああ、そうだったのか。

ゆるすのは、他人でなく自分。こう気づいた時は昨日の犬の散歩中だったけど、歩きながら号泣。

先日、隣人が私を無視するという話しの時も、相手を赦すという話しだったと思います。

でも、ゆるす(赦すでもあり、許すでもあるため平仮名にしてます)のは他人じゃなく、実は自分でした。盲点でした。

自分をゆるすという言葉自体、私も使ったことは何度もあるし、本で読んだこともあるけど、自分にそれが当てはまるとはまったく気づいてませんでした。

自分をゆるせばいい。こう思えた時、とても気が楽になりましたし、安心しました。

生きていると、ネガティブな感情や思考などが出てきます、必ず。

・私を無視する隣人へのイライラ、怒り
・私に面倒をかける妹への怒り
・暗いニュースばかり流すテレビへのイライラ
・SNSでディスってくる誰かへのイライラ、恐れ
・前を歩いている時、こちらに向かってくる相手への苛つき

こういうネガティブな感情が沸いてくるとき、つい、

「相手を赦すと楽になる」
「気にしなければ楽になる」
「譲る心を持てば楽になる」
「客観的になれば楽になる」
「愛を持ってみれば楽になる」

など、自分に何らかの行動や思考の変化を促すような「~せねば」「~すべき」というのを自分に押しつけていました。

これって結構疲れます。

「~すれば」いいんだよ。

本にもこのようなことが書かれていることがあります。

私は、修行系タイプなので頑張らなきゃと思いがちです。なので、努力を続けがち。でも、なかなかできない。

そんな時に、ふと、「自分が自分のことをゆるしてない。自分の感情を感じるままにゆるせばいい」という言葉が浮かんできた途端、涙が流れてきました。

私は私をゆるしてなかった。
私を大事にしてなかった。
私をないがしろにしていた。
私は相手を赦したいと思っていたけど、その前に私が私をゆるしてなかった。

まず、ゆるすのは自分。

自分が感じるあらゆる感情をゆるす。

自分が考えるあらゆる考えをゆるす。

自分が行うあらゆる行動をゆるす。

自分がどうしても赦せない相手がいても、そんな自分をゆるす。

自分がイライラしてしまうのをゆるす。

どんな自分であってもゆるす時、どんな相手であってもゆるせるように感じます。

他人をゆるすのは簡単じゃないこともあります。

でも、ゆるさないといけない。そうしないと自分が楽になれない。

確かにそうだけど、苦しくなることもあります。

なので、まずは、他人をゆるせない、ゆるしたくない、憎い、憎たらしい。

こう感じてしまう、自分をゆるす、無条件に。

ありのままの感情をむき出しにする自分をゆるす。

ゆるすを

・受け入れる
・~してもいい or しなくてもいい
・OK

などの言葉に書き換えてもいい。

・他人をゆるせない自分を受け入れる
・他人をゆるせなくてもいい
・他人をゆるせない自分にOK

自分が自分をゆるすと、とても自分が強くなった気になります。
恐れが、減る感じがします。

逆に言えば、なかなか自分をゆるせないと恐れはずっとあるでしょう。

ただ、恐れもOKだし、恐れを恐れてもOKですけどね。

どんな自分もゆるすということは、つまり

「私は私を愛している」

ここにつながりますね、やはり。

愛することはゆるすことってことです。

そして、自分は自分にゆるして欲しい。自分に愛して欲しいのです。

気づきにくい自分の意図or望み、それは

・自分にゆるして(愛して)欲しい

であると同時に

・自分をゆるしたい(愛したい)

もしかしたら、自分の他に、自分以外の人や動物や物が存在するのは、このためかも知れません。

結局、相手も自分ですから。