★釈迦は、悟りを得たと言われます。この悟りとは?何を悟ったというのでしょうか?

釈迦(仏教では「仏陀」とも呼ばれる)が悟りを得たとされる瞬間は、「菩提樹の下での悟りの瞑想」または「菩提樹の菩提(悟り)の日」として知られています。これが釈迦の啓発(悟り)の瞬間であり、それによって彼は仏教の開祖となりました。

釈迦が悟りを得たとされる内容については、異なる伝承や仏典によって微妙に異なりますが、一般的な要点を以下にまとめます。

四つの苦しみの理解:

釈迦は、生老病死といった「四つの苦しみ」(生、老い、病気、死)が人々の生活に根底にあることを理解しました。これらの苦しみから解放されるためには、苦しみの原因を知る必要があると悟りました。
無常性の理解:

釈迦は、物事や現象が常に変化していること、そしてそれに執着することが苦しみの原因であることを理解しました。この悟りによって、無常性(アニッチャ)の教えが形成されました。
無我の理解:

釈迦は、個々の存在が永遠に続く永遠の魂を持っているのではなく、無我(アナッタ)であると悟りました。この理解は、自己中心的な執着から解放され、他者との調和を強調する仏教の教えにつながります。
涅槃の理解:

釈迦は、「涅槃(ニルヴァーナ)」と呼ばれる究極の解脱状態に達することを悟りました。涅槃は無苦無悩の境地であり、執着から解放された状態を指します。
これらの悟りの要素が、釈迦が仏教の教えを展開する基盤となりました。仏教の中で、釈迦の教えは「四諦」(苦諦、集諦、滅諦、道諦)や「八正道」(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)など、苦しみの原因やその超越に向けた実践的な道が示されています。

★無我とは、何でしょうか?

「無我」(アナッタまたはアーナット)は、仏教の重要な概念で、直訳すると「非自己」または「非我」となります。これは、個別の存在や人間の自我についての宗教哲学的な理念を指します。無我の理念によれば、永続する独立した魂や本質的な自己は存在せず、個々の存在は無我であるとされます。

無我の理念において重要なポイントは以下の通りです:

個々の存在の無常性(アニッチャ):

無我の概念は、物事や個々の存在が絶えず変化していること、永遠に続くものではないことを強調します。この変化は常に続いており、ある瞬間に存在していたものが別の瞬間には存在しない、ということが理解されます。
自己の非実在性:

無我の教えによれば、我々が通常考えるような永続する自己や魂は実際には存在せず、ある瞬間に存在する個々の要素の集合体として捉えられるべきです。自己は常に変化しており、それを「我」として捉えることは誤りであるとされます。
執着から解放:

無我の理念は、自己や他者に対する執着から解放されることを目指します。執着は苦しみの原因であり、無我の理解によって執着から解放されることで、仏教の教えにおいて「涅槃(ニルヴァーナ)」と呼ばれる究極の解脱状態に至るとされます。
無我の理念は主に仏教の中で強調されていますが、その他の宗教や哲学体系でも類似の考え方が見られることがあります。無我の理念は、個々の存在を超越し、普遍的な連続性と一体性を強調するものです。

★自己の非実在性によれば、自己は存在しないことになります。では、苦しみも存在しないことになりますが、実際、人は苦しみます。なぜでしょうか?

これは仏教の哲学において一つの根本的な問いでもあります。無我の教義によれば、個々の存在は永続する独立した実体を持たず、変化し続ける仮定的なものであるとされます。しかし、それにもかかわらず人々は苦しみを経験します。これは以下のような理由が考えられます:

執着と誤解:

仏教では、「煩悩(ぼんのう)」と呼ばれる執着や誤解が苦しみの原因とされています。無我の理念にもかかわらず、我々はしばしば物事に執着し、それが変化することによって苦しみを経験します。この執着が無明と呼ばれる無知の中から生じ、個々の存在を永続的で独立したものと見なし、それに執着することが問題とされています。
欲望とアバンダンス:

欲望や執着が増幅されると、満たされない欲望によって苦しみが生じるとされます。欲望は無限に広がり、物事が変化することにより満たされないことが多いため、この欲望が苦しみを引き起こすとされています。
無明:

仏教では「無明」が苦の起源とされています。無明は、物事の真実を理解せずに、それに執着し続ける無知を指します。この無明が個々の存在を実体的で永続的なものと見なす誤った理解を生むとされ、これが苦しみの原因となります。
依存関係:

我々は外部の出来事や他者との関係に依存しており、これが変化することによって苦しみを経験することがあります。他者の期待や物事の変化に執着し、それが変化することによって苦しみが生まれるのです。
無我の教義は、このような執着や誤解から解放されることを目指しています。仏教の実践は、この苦しみの根本的な原因に気づき、それらから解放されるための方法を提供しています。八正道や禅の実践などが、この解放への過程を示すものとされています。

私達は、自分はこういうものだとか、世界とはこうだというような何らかの定義を持っています。

それが、真実とは、違うために苦しみを生じるのだと思います。

例えば、この世界はバーチャルであり、私達は、コンピューターゲームをしているのだ。

このように思えば、この世界で生きることを苦しみではなく、もっとワクワクとした経験にすることができるかも知れません。

また、私達は無力でちっぽけな存在で、自分の思い通りの人生を送ることは難しい。

このように思えば、この世界で生きることは、苦しみ辛いものになります。

結局、あ、そうか。真実とはこれだとわかった時、苦しみを作りだしていたのは結局自分だったのだとわかるのではないでしょうか。